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近世史料残存の道筋


 史料にはさまざまな種類のものがあり、時代によっても特徴があります。たとえば明治時代以降は新聞記事が欠かせない史料であるが、それ以前の史料の中心は和紙に筆で書き付けられた古文書(こもんじょ)といわれる文字史料である。そして現在残されている古文書の大部分は江戸時代に作られたものです。これは時代的に近いからだけでなく、江戸時代は文書主義の社会といわれるくらい多くの文書が作られ利用されたためです。
 江戸時代には、支配者である武士だけでなく、民衆も文字を書いて古文書を残しました。いわゆる村請制により、村や町の庄屋・年寄といった役人は支配の末端を担うとともに、村の代表として願いを上申したり他村と折衝するためにも、文字を書き計算することが必要でした。彼らは領主との間で文書をやりとりしてその写しを保管するとともに、村や町独自の文書も作成しました。たとえば年貢の額は領主から村にたいして免状という文書で通達されますが、村ではこれを村人に割り付けるための免割やその納入を記録する帳簿を作成します。
 こうした村や町で作られた古文書は「村方文書(むらかたもんじょ)」「町方文書」などといわれ、江戸時代には村・町の財産としてさまざまな備品とともに代々の村・町役人の間で引き継がれていきました。こうした文書の一部は、現在もかつて村・町の役人をしていた家や、水利組合・自治会などの団体に伝来されています。
 一例をあげましょう。播磨国印南群曽根村(現高砂市)の村方文書は、明治以降、戸長役場を経て、村役場、そして高砂市役所に伝来しています。江戸時代の曽根村は複雑な領有関係を経て、江戸時代後期には一橋領と旗本池田氏の領地となりました。幕末維新期に曽根村一橋家領の村役人の家に保管されていた村方文書は、明治13年(1880)の第一戸長役場・同16年の曽根村役場、同19年の曽根村戸長役場、同22年の曽根村役場、大正2年(1913)の曽根町役場へと引き継がれ、昭和29年(1954)の曽根町の高砂市への合併により高砂市役所に移管されて現在に至っています。この曽根村文書には、元和五年(1619)以降の姫路藩領・幕府領・小田原藩大久保領などの時期の村方古文書が含まれており、領主が変わり庄屋が変わっても重要書類が継承されていったことがわかるのです。

 ただそれはすべての史料ではなく、江戸時代にもまたそれ以後にも選別が行われてきました。年貢(税)に関すること、人別(戸籍)に関すること、検地帳(土地台帳)、水利に関する争論史料(裁判文書)は、行政上で有用な「現用文書」として、それぞれの時点で整理され保存されてきました。ただそれはあくまでその時々の選別基準に基づいていたので、廃棄されたものの中にも貴重な史料が含まれていたことは確実です。曽根村関係でも、戸長役場文書の一部が流出して現在東京の国文学研究資料館に所蔵されており、それには江戸前期の代官の触状控など村の基本史料が含まれているのです。

 こうしたことは現代の公文書の保存と廃棄に際してしばしば問題になる選別問題に関しても、示唆を与えるのではないでしょうか。史料の選別は現在有用かだけでなく、遠い未来を見据えて慎重にすべきことを、曽根村文書のたどった運命が語っています。

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